ミナミのはちまんさん

御津宮(御津八幡宮)の公式ホームページ

ミナミのはちまんさん

〒542-0086 大阪市中央区西心斎橋2-10-7 TEL06-6211-8655

〒542-0086
大阪市中央区西心斎橋2-10-7
TEL06-6211-8655

メニュー

コンテンツへスキップ
  • トップ
  • 由緒
  • 境内施設
  • 年間行事
    • 月旦祭
    • 月次祭
    • 歳旦祭
    • 例 祭
    • 節分祭
    • 観桜会
    • 夏越の祓
    • 夏 祭
    • 年越の祓
  • お守り
    • お 札
    • 絵馬各種
    • 袋お守り各種
    • その他お守り各種
    • おみくじ
  • ご祈願
  • 部屋利用
    • 広間(会議室)
    • お茶室
  • アクセス

御祭神

応神天皇(第15代天皇)
仲哀天皇(第14代天皇・応神天皇の御父)
比咩大神(当宮では神功皇后を意味し、仲哀天皇の皇后・応神天皇の御母)

御神徳

厄除開運 安産守護 必勝祈願

由 緒

 御津宮(御津八幡宮)は現在の心斎橋一帯の産土の社です。この地は、江戸時代初期以来全国有数の街として発展し、今日ではこの辺り一帯は「ミナミ」と呼ばれ、大阪の繁華街を形成しています。
 故にここを氏地としている当宮は、境内こそ約400坪と狭いものの常時参拝者も多く、今も神社前を東西に伸びる街路は「八幡筋」の名を以て呼ばれ、大阪人にとって親しみのある社として今日に到っています。
 神社縁起に依れば、孝謙天皇の天平勝寶元(西暦749)年、奈良の手向山八幡宮が東大寺の守護神として宇佐神宮から勧請された折、宇佐からの神輿がこの地に上陸し、一時安置され、後にここを御津八幡宮と改めたとなっております。  しかし、創始については明確に記した文献で残っているものはなく、諸説があります。
 法学者瀧川政次郎氏はこの地の歴史的背景から考察され、延久元(西暦1069)年より承久2(西暦1220)年の150年間にこの地が石清水八幡宮の荘園となっており、石清水八幡宮が源氏の氏神として勢力を伸ばしたこの時代に創始されたのであろうという推定を下しておられます。
 いずれにしても古い歴史を有する神社であることは間違いありませんが、戦国時代の兵火に焼かれ、旧記も失われてしまいました。
 また昭和20年には、大阪大空襲のため本殿・拝殿すべて焼失し、現在の社殿は昭和35年に再建されたものです。

御祭神

 応神天皇(第15代天皇)
 仲哀天皇(第14代天皇・応神天皇の御父)
 比咩大神(当宮では神功皇后を意味し、仲哀天皇の皇后・応神天皇の御母)

御神徳

 厄除開運 安産守護 必勝祈願

由 緒

 御津宮(御津八幡宮)は現在の心斎橋一帯の産土の社です。この地は、江戸時代初期以来全国有数の街として発展し、今日ではこの辺り一帯は「ミナミ」と呼ばれ、大阪の繁華街を形成しています。
 故にここを氏地としている当宮は、境内こそ約400坪と狭いものの常時参拝者も多く、今も神社前を東西に伸びる街路は「八幡筋」の名を以て呼ばれ、大阪人にとって親しみのある社として今日に到っています。
 神社縁起に依れば、孝謙天皇の天平勝寶元(西暦749)年、奈良の手向山八幡宮が東大寺の守護神として宇佐神宮から勧請された折、宇佐からの神輿がこの地に上陸し、一時安置され、後にここを御津八幡宮と改めたとなっております。
 しかし、創始については明確に記した文献で残っているものはなく、諸説があります。
 法学者瀧川政次郎氏はこの地の歴史的背景から考察され、延久元(西暦1069)年より承久2(西暦1220)年の150年間にこの地が石清水八幡宮の荘園となっており、石清水八幡宮が源氏の氏神として勢力を伸ばしたこの時代に創始されたのであろうという推定を下しておられます。
 いずれにしても古い歴史を有する神社であることは間違いありませんが、戦国時代の兵火に焼かれ、旧記も失われてしまいました。
 また昭和20年には、大阪大空襲のため本殿・拝殿すべて焼失し、現在の社殿は昭和35年に再建されたものです。

御津八幡宮文書

当宮に伝わる古文書「御津八幡宮文書」一括(1695点)は、平成29年に大阪市指定有形文化財に指定されました。
今後、少しずつでもこの文書をご紹介出来ればと思っております。

御津八幡宮文書

当宮に伝わる古文書「御津八幡宮文書」一括(1695点)は、平成29年に大阪市指定有形文化財に指定されました。
今後、少しずつでもこの文書をご紹介出来ればと思っております。